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2006.12.27

雨上がりの空に。

【渋谷セルリアンタワー】2006.12.27.11.30撮影。
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替天行道。

大雨一過、全ての霞を払った抜ける蒼空に、いにしえの勇姿達の志しを想う……。





北方謙三『水滸伝 三 輪舞の章』/集英社文庫
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●過去のレビュー

●北方謙三『水滸伝』HP

●資料サイト






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Posted at 14:25 | 読書 | COM(0) | TB(0) |
2006.11.07

水滸伝/北方謙三著を読んで。

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北方謙三『水滸伝 一 曙光の章』文庫版を読んだ。
水滸伝は中国に伝わる古い小説である。
雑駁にいうと、国の腐敗に憂う勇士がアンダー・グラウンドに潜伏し、同士を募り世を正そうとするテロリストの話である。

しかし、14世紀元代の歴史書『宋史』に徽宗期の12世紀初めに宋江を首領とする三十六人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されているそうで、講談師たちが12世紀中頃に始まる南宋の頃に宋江反乱の史実をもとに物語を膨らませていったと推定されている。13世紀頃に書かれた説話集『大宋宣和遺事』には、宋江以下三十六人の名前と彼らを主人公とする物語が掲載されているそうだ。
15世紀頃にまとめられた水滸伝では、三十六人の豪傑は3倍の百八人に増やされた。また、荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改め、梁山泊は朝廷への忠誠心にあふれる宋江を首領とし、反乱軍でありながらも宋の朝廷に帰順し忠義をつくすことを理想とする集団と設定されて、儒教道徳を兼ね備え知識人の読書にも耐えうる文学作品となった。(以上wikipediaより)

とはいえ、反乱軍を主人公とする水滸伝は儒教道徳にはそぐわず知識人には敬遠され、もっぱらめくるめく時代の中で、虐げられてきた庶民の読み物として親しまれたようで、僕が以前読んだ『大地の子』の文革の頃は当然禁書扱いだったそうだ。

日本でも吉川英治、柴田錬三郎など様々な翻案がある。
北方謙三の水滸伝は全19巻の大作で、現在まで100万部以上のベストセラーとなり、今年第9回司馬遼太郎賞を受賞した。
先月から待望の文庫が発売され、毎月一巻ずつ出版される。
電車読書にはぴったりだ。
北方水滸伝は中国の訳書をもとに、完全に北方謙三の作品として作り替えられた作品で、そういう意味では氏のハード・ボイルド時代からの集大成といえる。
オリジナルの登場人物像を北方流に噛み砕き、微細な心理描写や氏がもとより得意とする武闘シーンが折重なり、人間における正義、勇気、痛みの意味を改めて問いかける。
村上龍的な後味の悪い暴力至上主義ではなく、かといってよくある歴史偉人伝でもない、壮快な読後感を味わえる。

それぞれの巻(章)において、メイン・ファクターが設定してあり、第一巻は豹子頭 林冲(ひょうしとう りんちゅう)がクローズ・アップされている。
読んでいるうちに、だんだんある記憶が蘇ってきた。
1973年10月~1974年3月日本テレビ系で放送されたテレビ・ドラマ『水滸伝』である。
中村敦夫が主演で、林冲だったのだ!
以来、読みながら中村敦夫をイメージして読んでしまった。
様々な登場人物に自分の体験やタイプを重ねて読んでも面白い。
そこらへんが、時代を超えて水滸伝が親しまれる由縁なのかも知れない。

冒頭の水滸伝来歴を読まれて、敬遠される向きもあるかも知れないが、
僕が未だ北方水滸伝を読んでいない夏頃、北方氏とお会いした折にこういっておられた。
「noodles、俺は歴史小説を書いてるんじゃないんだ。俺の水滸伝は現代小説なんだよ」

15世紀に新たに書き直された水滸伝や先駆達が書いてきたもの然り。
最も新しい水滸伝こそ最良の『水滸伝』なのだ。

●北方謙三 水滸伝HP
●水滸伝詳細

水滸伝(1(曙光の章))
水滸伝(1(曙光の章))





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Posted at 15:01 | 読書 | COM(0) | TB(0) |
2006.09.15

『大地の子』を読んで。

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朝夜と約40分の電車に揺られながら、さらに就寝前も夢中で『大地の子』山崎豊子/全4巻を読んだ。

沈まぬ太陽』で感銘を受け、立て続けにこの作品も読みふけった。
著者によると、主人公の中国残留孤児である陸一心(ルー・イーシン)の存在があまりにも強烈で、しばらく次作に取りかかる気力が果てた末、『沈まぬ太陽』の主人公のモデルになった方と出逢い、ふたたび書く気力を取り戻したのだという。
そんな書き手の葛藤を想うと、読む順番が逆だったのかも知れない。

僕自身も2000年、北京を旅して以来、何かと中国には想いがある。
この作品で、改めて文化革命の頃の中国が、民主主義を享受する日本との間に大きな隔たりがあったことを思い知る。
それは正に、今でいう北朝鮮への違和感と同一な、我々のファシズムに対する無知からくる脅威と同義なのだ。
『大地の子』は、我々日本人が感知し得ない一党独裁統一国家主義という脅威を、あくまで中国残留孤児の波乱に満ちた生涯を克明に描くことで、抑制の効いたヒューマンな表現を持ってして揶揄していく。
そして、日本人の血を持ちながら、中国という大陸の子、『大地の子』として生きることを決断する主人公の葛藤を通して、アイデンティティの深淵を知るのである。

今回は『沈まぬ太陽』では味わえなかった、困った現象に悩まされながら読んだ。
あまりに感極まる場面が多く、泣けるのだ。
電車の中である。
帽子を目深にしてひたすら周囲にわからないように、うつむいて読み続けた。なんとか涙が落ちる寸前で自分の感情をコントロールするのだが、
「独りになれる場所で、思いっきり泣きながら読みたい」と本心では何度もそう思った。


01daiti.jpg大地の子(1)02daiti.jpg大地の子(2)03daiti.jpg大地の子(3)04daiti.jpg大地の子(4)





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Posted at 17:18 | 読書 | COM(0) | TB(0) |
2006.08.18

『沈まぬ太陽』を読んで。

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どうしても妥協なんかできない。
しかし、仕事においても、家庭においても、妥協との葛藤の毎日である。
自分と他人の倫理観の相違は往々にしてある。
「流れを読めよ」
「お前独りが正義感をふりかざして英雄きどりか?」
自分の倫理を押し通せば、必ずそう批判される。
そして、王道からの脱落者として社会から追いやられてしまうだろう。
では、正義とは少数派なのか?
正義とは王道から逸脱する行為だというのか?
正義を曲げて、流れに乗ることが王道(メジャー)なのだろうか?
民主主義、資本主義とは己の倫理を押し殺した上で成立するという矛盾を、常に抱える。
勿論、内外の状況を無視して靖国参拝した頭首Kは論外であるが。。

※戦後、国の統括企業として世界への空路を確保し、物流・文化発展の一因を築いていった日本航空。日航労組の委員長を勤めた主人公(実在)は、東大卒のエリート社員だったにもかかわらず、自らの倫理(空の安全)を貫いた末、中近東・アフリカ諸国赴任という10年に及ぶ、流刑の罪を課せられる。

あとがきを読むと、作者は正義の意義において悩み続け、一時断筆しようかとまで思ったというようなことを書いておられる。
しかし、21年前の8月12日におこった日本航空123便の520名もの命を奪った世界最大にして最悪の御巣鷹山事故を取材しながら、被害に遭われたご遺族の方々の声を広い集めていく中で、あの悲劇を埋没させてはならないという使命にかられ、全5巻の大作を完結させたそうだ。
執筆にあたっての作者のご苦労ぶりは、ここに詳しい


前から読みたかったが、大作故になかなか時間が取れなかった。
やっと『沈まぬ太陽』を、電車通勤で読みふけった。
人命にかかわる正義の重さと、単なる一企業人として保身にひた走る姑息な正義の重さ。
大いなる理念と、今そこにある理想、貴方ならどちらを選ぶだろうか?

追伸)本来ならば8月12日の21回忌にこの記事をアップしたかったが、遅読なため叶わな
   かった。。
   僭越ながら、御巣鷹山事故被害者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

沈まぬ太陽(1(アフリカ篇・上)) 沈まぬ太陽(2(アフリカ篇・下)) 沈まぬ太陽(3(御巣鷹山篇)) 沈まぬ太陽(4(会長室篇・上)) 沈まぬ太陽(5(会長室篇・下))





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Posted at 16:27 | 読書 | COM(0) | TB(0) |
2006.06.29

東京タワーを読んで。

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『東京タワー』を読んだ。
正式には『東京タワー オカンとボクと、時々オトン』がタイトル。
著者はリリー・フランキー。
本名は中川雅也、1963年福岡県北九州市生まれ。

正式ペンネームはリリー・フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドというそうで、あのRELAX♪のアーティスト名と、大学時代に友人から呼ばれていた百合(リリー)を合体させたそうだ。

彼の詳しい略歴はHPを観ていただくとして、実は僕は彼に何度も会っている。
勿論、面識はないが、昨年まで会社が代官山にあったとき行きつけの居酒屋で何度か遭遇していた。
だからというわけでもないが、例の穴澤賢が面白いと薦めてくれたので、借りて読んでみた。
ほぼ自信の実話であり、亡くなった母へのレクイエムは、書いているあいだ一度ものってきたことがなかった、とご本人も何かのインタビューで語っている。

使い古されたいい回しをすれば、すべからく世の男はマザコンであり、これは著者の大いなるマザコン・カミングアウト小説でもある。
ここまで、お母さんが大好き、お母さんがいなくちゃ生きて行けない、ってことを真摯に切々と書かれるとかえって痛快でもある。
だからこそ、この小説は世の男性達の支持を受け、口コミで160万部以上のベスト・セラーになったのかもしれない。

さらに、読んだ読者側の個人的なお母さん像や、家族形成などが物語とリンクした場合は限りなく泣ける小説でもある。借してくれた穴澤もボロ泣きしたという。
現にこの小説は電車の中で読んではいけない、という口コミで広がっていったそうだ。

息子がお母さんを思うのは、幼児期の子育ての中心が特殊なケースを除いてほぼ母親である以上、仕方のないことだと思う。幼いときに風邪で発熱して寝こんだときに氷嚢を乗せてくれるのは母親だし、玉子粥を作ってくれたり、みかんを剥いてくれるのも母親だ。
そんなとき、当然父親は外で仕事しているわけだから。
例えばだが、男が成人して色気づいたとき、風邪で寝こんだときの看病は母ではなく恋人に入れ替わるだろう。そのとき、恋人のつくる愛に満ちた粥が美味ければ、そこで母離れ。
その恋人と身体の関係もあればなおのこと。
だが残念ながら、母の味を超えてなければ永遠に母親が恋人&母のまま君臨するのかもしれない。
雑駁にいうと、母離れのタイミングなんぞそんなものでしょう。

逆にファザコンの男の話を聞かないのは、自分が大人になったとき父親は同性として人生のいわば最初のライバルと化してしまうからだ。ところが、母親は永遠に異性でもありこちらがどんなにオヤジになっても孫のことを気遣ってくれたり、好物の品を送ってくれたりと永遠に世話を焼いてくれる存在だ。
そして、リリー・フランキーもいっているが、世の女性達がマザコン男を嘲笑するのは、相手の母へのライバル心の表れではないだろうか?

僕は残念ながら、世評ほどボロ泣きはしなかったが、リリー・フランキーの文体が偉才を放っていて興味深かった。

マザコン男にファザコン女。
いずれにしても、家族愛の断片的な一つの形でしかない。
何でもいいんじゃない?
所詮、世の中、男と女しかいないのだから。

東京タワー
東京タワー





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Posted at 18:09 | 読書 | COM(0) | TB(0) |
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